「……おい、大丈夫か」 東京の駅へ向かう、灰色の通勤路。冴えな...
「……おい、大丈夫か」
東京の駅へ向かう、灰色の通勤路。冴えないサラリーマン・佐藤は、歩道の植え込みに蹲る女性――美咲に声をかけました。
時計の針は、いつも乗る電車の時間を無情に過ぎています。このまま行けば、今日もまた部長のネチネチした小言が始まり、同期には鼻で笑われ、先輩からは「遅れた分も働けよ」と溜まった書類を押し付けられる。
(どうせ怒られるなら、人助けして怒られたほうがマシか……)
半分投げやりな気持ちで差し伸べた手が、二人の運命を繋ぎました。
美咲は重い貧血でした。佐藤は彼女を近くのベンチへ運び、自販機で買ったスポーツ飲料を渡すと、自分の名前も告げずに足早に会社へ向かいました。
その日、案の定こっぴどく叱られた佐藤でしたが、不思議と心は軽やかでした。
数週間後、佐藤の会社に新しいクライアントの担当者が訪れます。洗練されたスーツを纏い、背筋を伸ばしたその女性は、佐藤を見るなり目を見開きました。
「……あの時の、スポーツドリンクの」
それは、あの日助けた美咲でした。彼女は新進気鋭のデザイン会社のディレクターだったのです。
仕事を通じて二人の距離は縮まっていきました。佐藤は自分を「何の特徴もない、しがない会社員」だと思っていましたが、美咲は違いました。
「佐藤さんの書く報告書、すごく丁寧ですよね。あの日、私を助けてくれた時もそう。あなたの優しさには『嘘』がないから好きです」
職場の誰もが気づかなかった佐藤の誠実さを、美咲はまっすぐに見つめました。周囲の目ばかり気にしていた佐藤にとって、彼女の言葉は色褪せた世界を塗り替えていくようでした。
ある残業帰り、降り出した雨に二人は雨宿りをします。
「あの日、声をかけてくれなかったら……私は佐藤さんに会えなかった」
「俺も、あそこで見捨ててたら、一生自分を嫌いなままだったと思う」
佐藤は震える手で、彼女の肩を抱き寄せました。いつも上司に頭を下げているその手が、今は大切な人を守るための強さを持っていました。
「……君の隣にいたい。冴えない俺だけど、君のことだけは、誰よりも大切にする」
その後、二人は恋仲になりました。
相変わらず上司はうるさく、仕事は山積みです。けれど、今の佐藤のネクタイは少しだけ誇らしげに結ばれています。仕事が終われば、自分を認めてくれる最愛の人が待っているから。
あの日、遅刻を覚悟で「大丈夫か」と声をかけた一歩が、彼の人生を最高に鮮やかな物語へと変えたのでした。
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