稚拙な小説に対してよく「プロットを読まされているような小説」とい...
稚拙な小説に対してよく「プロットを読まされているような小説」という批評がありますが、意味がよくわからなかったので、どのような意味なのかわかるように詳しく解説してほしいです。
文章の表現力に乏しいということなのでしょうか?
友人に聞いたところ、阿部千里さんの八咫烏シリーズがプロットを読まされているような気分になる小説だと言われ、ためしに数冊読んでみたのですがピンとこなくて(ふつうに上手な小説だとおもいました)…クレムにいる字書きの方に聞いてみたくなりました。よろしくお願いします。
みんなのコメント
“プロット通りに進めるために”都合よくキャラが動いているというか…キャラクターがプロットに振り回されているように感じるって意味かなと思います
キャラクターの軸や行動原理、感情の動きの描写などが薄めだとそうなりがちのような気がします
そのあたりの違和感を読者に感じさせないとプロだなぁって思います
稚拙なものはプロットとすら思わない
漫画もそうだけど自分の書きたいところだけ書いた感じで前後の繋がりと動機が不明なものは稚拙だと思う
『私は今から○○に行ってくるから、あなたはここでお留守番していてね』
そう言うと母は家を出て行った。
『暇になったなー。さて、何をしよう』
↑みたいな感じの文章だと思ってる
人間の動きの描写が淡泊で、何かと台詞で説明している文章
『私は今から○○に行ってくるから、あなたはここでお留守番していてね』
そう言うと母は家を出て行った。
『暇になったなー。さて、何をしよう』
だけだったらそれほどとも思わないけど、その後延々と
『…あ、冷蔵庫にプリンがあるんだった』
Aは冷蔵庫を開けてプリンを取り出す。
『スプーン、スプーン、っと! ふふ、楽しみにしてたんだ〜』
足取り軽くダイニングのイスをひくと、Aは腰掛けた。
みたいにこんなのがずーっと続いてたらやっぱりキツイと思う。
自分はキャラの情感が伝わらないみたいな意味に受け取りました。必要な情報は伝わって話が進むけど、感情移入出来ないような。その辺りのちょうど良い加減は人によるので、逆にプロット風が良いと感じる人もいるのではと思いますが。
悪評として使うなら、話が面白くても心に響かない、残らないみたいな意味ではないかと
推理小説畑の人の作品でそのように感じたことはあります
あんまり心情や情緒的なものは重視してなくて、トリックのための状況説明に終始している感じ
朝の学校。教室でAはBに怒った。AはBを殴った。Bも怒った。Bは後ろを向いて立ち去った。チャイムの音がする。先生が来た。Aは席についた。
みたいな?
「結果」の説明に終始し、情緒の感じられない文章は「プロットぽいな」と思います。
でもそういう淡々とした語りが良い小説もあるから、一概に悪いこととも思わないかなぁ……。
あらすじを読んでるようなダイジェスト文章っぽい小説の事なのか、本当にただプロット通りにキャラが動いてるだけの小説の事なのか
あんまよくわからんな……
単純に合う合わないもあるから難しい
コメントをする